星は掴めないまま
よく笑う彼が珍しく真面目な顔をして訪ねてきた夜は、明日は大雨かもしれないと思ったものだ。
年がら年中笑っている、と言えるほどの長い付き合いではなかったが、そうだろうと予測できるほどよく笑う男だった。
大口を開けて、まるでなにも知らない子供のように明るく笑うのだ。
馬鹿だ呑気だと罵る声が聞こえないわけではなかった。彼に届いていたかどうかは別として。
しかし少なくとも私や銀時、小太郎、晋助なんかはわかっていたはずだ、そんな生ぬるいものじゃないのだと。
すべての人をすくい上げるような笑い声だった。
ひとしきり笑ったあとに、大丈夫だ、と言うにちがいないと思うほどの明るいそれだった。
まぁ、彼がその言葉を発することは少なくとも私がそばにいる限りはなかったが。
それこそ無責任だと、愚かで呑気だとわかっていたに違いない。
明日の命さえ危ういのだと誰もが痛いほどわかっていて、その程度の命だなんて誰もが口にしたくないことだったから。
私たちは何かを守れるのだろうか。
なにを守れるというのだろうか。
自分の命さえ危ういというのになにに手を差し伸べ、何を引っ張り上げ、守りきれるというのか。
そんなことを考えている暇があったら少しでも多くの天人を殺したし、いかに傷が少ないまま終えられるかに頭を使ってきた。
それなのに、彼は笑うのだ。
あえて言わせてもらうが、馬鹿みたいに。
「おんしは優しい女子じゃア」
「…馬鹿にしてる?」
「アッハッハ、違うぜよ。わしゃ大切なもんは馬鹿にせん」
「銀時の天パからかうくせに」
「ありゃア戯れぜよ」
「よく言うよ」
「――ま、優しいもんは死ぬまで自分が優しいと知らんもんじゃ」
そういうやつほど、自分には優しくできんからなァ。
そう言って私を見る目がひどく優しいのだと、それこそ、彼は一生知ることはないのだろう。
優しいのは辰馬なのに、あったかいのも、懐が大きいのも、心が、強いのも。
いつだって私の敵はこの弱い心で、それとの間に立ち塞がってくれるのは辰馬だった。
その暗い暗い陰湿な闇の中に沈んでいく馬鹿な私を引っ張りあげるのは、いつも、辰馬だった。
「優しいって言える人は、優しいと思う」
「そうじゃのー、わしゃア、優しくなりたいと思う奴は優しいんだと思う」
「なりたいと思うだけなのに?」
「それだけじゃなか。優しくなりたいと思った理由がある」
目を細めて星を見上げる横顔を、ただ、見つめることしかできなかった。
辰馬がいつも優しいと褒めるたびに、そうなりたいけどね、と返してきたのは私だった。憎いほど、狡い男だ。
「守ろうと悩めるっちゅーんは、十分すぎるほど優しい」
だから心配になる、そう言って辰馬は私の頭をぐしゃりと撫でた。
おまんの髪はいつもサラサラじゃのう、辰馬はいつもくるくるパーだね、そりゃ髪のことか頭のことかで意味が違ってくるぜよ。
…ふっと笑い出したのはどちらが先だったか。
ぐしゃぐしゃになった髪を手で梳きながら、辰馬の真似をするように空を見上げてみた。目が痛いほど輝く大量の星が溢れていた。
彼は、あの世界に焦がれてしまった。
あの星や、あの月や、あの雲、あの暗い色の世界が彼を魅了して、連れ去ってしまうのだという。
一緒にこないかと言われたのは少し前のことだ。やだよ、と即答したら銀時にも振られたのだと笑ってくれた。
あぁなんだか、星の眩しさにかこつけて泣いてしまいたい夜だ。
きっと、綺麗だ、ってただその感動だけを抱いて、私が空を見上げられることはもうないんだろう。
空が彼を奪うのだと言えば体裁が良いだろうか、本当は、引きとめられなかった自分、ついていけなかった自分を隠したいだけだ。
たかがひとつの命だ。私のも、彼のも、仲間のものもすべて。
たかがひとつなのに、どうしてひとつひとつを見てくれないのだろうか。
お上はたかがひとつの命が失われただけだと言うくせに、自分はお高い地位に安住し、しがみつき、私たちを見下す。
国のためだなんて誰が言えるんだ。
あの星のひとつは仲間の命かもしれない、それくらい綺麗なものじゃなきゃ到底私の弱い心は立ち直れそうにないんだ。
それに、そうだとしたら。
あの星の数々が死んでいった仲間だとするなら、辰馬が惹かれるのもわかるから。それなら私だって惹かれるのだから。
そうやっていくらでも、言い訳を探すんだ。辰馬と離れても仕方が無いと思えるような、言い訳を。
「」
「…なに」
「やっぱり、一緒に行かんか」
零れそうだった涙を目の奥に戻して辰馬を見ると、先ほど私を呼び出した時の表情を浮かべていた。
笑顔なんて到底現れそうにないほどの真っ直ぐな目と、真一文字に結ばれた口元。
そのくせ、ひどく優しく名前を呼んだ。、と彼が呼ぶのはいつだってそういう声だった。
頷いてしまいたくなるような、すべてを委ねたくなるような、甘えきってもう自分じゃ立てなくなるような、声。
「どうして、いまさら」
「そんな顔のおまんを置いていきたくないぜよ」
自分の声の震えるのに気づいた頃には、辰馬の腕の中にいた。
大好きなところだった。この血なまぐさい戦場で唯一見つけたあたたかい場所、縋りたくなるほど優しい腕の中だ。
頭をゆっくり撫でて、背中を規則的にぽんぽんと叩く。私が泣きつくといつもやる仕草。わかってるんだ、この男はなにもかも。
私がその真っ直ぐな目に惚れ込んでることも、大きな笑い声に救われてることも、この逞しい腕に包まれないと眠れないことも。
狡い、狡いやつだ。馬鹿みたいに、子供みたいに笑うくせに計算高いんだ。
でも一番馬鹿なのは、私だ。そうやって甘えきってるのは私だから。
それでも最後の抵抗とばかりに、狡い、と大好きなぬくもりに包まれたままこぼした。
「狡くて結構、」
たかがひとつの命を思って泣くような優しい女を、この憎いほど汚い世界で見つけた愛しい女を守れるなら。
「――ねぇ、わたし辰馬の方言好きだなあ」
「…そうかァ、よう煩いって言われるがのう」
「それは笑い声でしょ。私はそれも大好きだけどね――」
「わしを救ってくれたのはおまんじゃ、」
だから、一緒に来い。
ぎゅっと強められた腕の力のせいで苦しくて、苦しいよなんて言ってみせたら、目の奥に押し込められなくなった涙が溢れた。