雨は嫌いだった。 視界が悪くなる、足下も不安定になるし、なにより銀時の機嫌が悪くなる。 銀時にはいつだってお天道様を背負っていて欲しい。
小屋を出たときには重たげな曇天だったのに、ついに重さに耐えきれなくなったらしい空は ぽつぽつと雨を降らし、しだいに豪雨へと変わって、周りの音さえよく聞こえなくなった。 さっきまで少しこちらが不利なほど大勢いた天人は、この雨で態勢を悪くしたのか数体やられると さっさと退散していった。銀時たちのところも、こうだといいんだけど。 私も早く帰りたいなァと降りしきる雨に打たれながら、強く思った。雨は、やっぱり、嫌い。 ずぶずぶと沼にはまるように足を取られながらも、気力を削がれながらも、小屋へと戻ろうと気合いを入れた。 ちょうどそのときだ。豪雨にまざって、微かに、悲鳴が聞こえた気がした。
「………だれ、」
「――っ、誰かァ!」
仲間かどうか、そもそも人かさえわからないのに足を止めてる時間が勿体ない。 そう思って小屋のある方へ向き直ったらまた声が、今度ははっきりと聞こえてきて。 不快さを露わにするように眉間にたっぷり皺を刻んで、振り返ると。
豪雨に視界を遮られながらも、確かに認識できる大量の赤、痛みにゆがんだ、人の顔。 それもどこか見慣れたものだ、あれは確か小太郎の率いている隊の男だった。 だがのんきにそんなことを考えている場合じゃないと気づいたのは、悲鳴が聞こえてすぐだ。 刀を抜いて、腰に結んだ白の、銀時の、鉢巻に少しだけ触れて飛ぶように走った。 男の後ろには数体の天人らしき影が確認できる。あれを殺ればいいのか。
「こっちじゃねェ、後ろだ!」
歪めていた顔を驚きに変えたと思うと男は叫んだ、私の後ろを指さして。 一瞬のうちに身の毛がよだつ。考える間もなしに刀を構えたままで振り返ると、 ぎりぎりのタイミングで天人のそれとかち合った。下卑た笑みが気味悪い。
「…わたしは、いま、気分が悪い」
反論する暇も、答える暇さえ与えずに天人を突き飛ばし、一瞬出来た隙に刀を振り下ろす。 よけることさえ煩わしくて久々に浴びた返り血は、変な匂いがしてさらに気分が悪くなった。 つい小さく舌打ちを零しては振り返る。 が、男に大丈夫かと尋ねるために開いた口はその言葉を紡ぐ前に閉口し、 男に武器を振りかざしていた天人には刀を投げ、 自身は今にも横から斬りかかろうとしていた天人と男の前に飛び出した。
「…ッ、く、はッ、」
「――貴様、よくもォ!」
私の横腹をざっくりと斬って満足げに笑っていた天人は、隣で臥した仲間を見て急に表情を変えた。 まずい。急いで投げてささったままの刀を引き抜くが、それが残った天人を捉えたのと 天人が再び私の首をざっくりと斬ったのはまさに同時。 ちかちかと、視界がまぶしくなった。一言も発さぬまま臥した天人を見てから、 がくがくと震える膝を地面について、ゆっくり倒れた。
「オイ、おい、あんたっ!」
「、けが、は、」
「俺のことなんてほっとけよ!待ってろ、今だれか呼んで、」
「ま、って、」
呼ばないで。ふらふらと揺らぐ意識の中で必死に言葉を絞り出した。 血の気が引いていく感覚、臥しているはずなのに宙に浮いている感覚。 目の前で今にも泣き出しそうに――いや、泣いている――彼は、ぐっと顔を歪めて。
「なん、で、」
「もう、だめだ、よ…、それ、に。
――ぎんとき、が、くる」
きっと、ね。付け足すように、ぽつりと零して笑って見せた。 それでも彼の顔はゆがんだままで、うぅ、と涙声で、いらないのに、呼ばないでって、言ったのに。 耳をつんざくような大声で叫んで、ふらふらになりながら小屋の方へ向かっていった。 ひどく頭に響いた叫び声は、でもどこか心地いいとすら感じた。もう終わりなのかと、思い知らされるみたい、だ。
そういえばずっと続いている豪雨も、気づけばそこまで嫌でもなくなった気がする。 今は身に染みついた汚れを、血を、罪を落としていくような気にもなって、つい自嘲するように笑った。 今更この身に染みついたものをいくら落として見せても、失ったものは戻ってくることはないというのに。
ゆっくりと重たいまぶたを閉じるといよいよそれらしくなってきた。 意外ともつんだな、のんきにそんなことを思ったけれどきっとこれは、彼を、銀時を、待っているからだ。
「――、オイ、ッ!」
ぼんやりとし始めた意識に、もう何年と聞いてきた聞き慣れた声が響いてきた。 私の身を洗い流すように騒がしく降りしきっていた雨の音も、少し遠くなって、 必死になにかを叫んでいた男の声も、どこか、遠く、なって。 代わりに首と腹にひどく熱を感じた。
今更痛みを与えなくたって、逃げやしないのに。
そう思ったけれど、そっと手に触れた温もりにまだ生きたいと体が勝手に動く。 、。聞き慣れた、でもすごく不安げな声が何度も何度も聴覚を刺激してくるから、 重たくて仕方ないまぶたを必死になってこじあけた。
「お、い、、」
「ぎ、ん、とき、?」
確かめるように語尾を上げてみたが、たとえ視界を遮る雨があっても血があっても、 銀時のぬくもりだけは、声だけは、どうしたって間違えるはずがなかった。 そっと頬に感じたのはじんわりとしたぬくもりで、あぁ銀時だ、まぶたがどんどん重たくなっていく。
何度も名前を呼んでくれる彼に、なにを伝えよう。なにを言えるだろう。 私の頬に触れて小刻みに震える手に、何を残そう。
「なに、なんで、こんな」
「しくじって、ッふふ、」
「笑ってる、場合じゃ…」
「ぎん、こっち、みて」
だいじょぶ、と、ちゃんと動かせていただろうか、ちゃんと、笑えているだろうか。 名残惜しく重いながら、銀時の手から離れてすっかり感覚を失った手で、銀時の頬に触れた。 なんの感覚も伝わってこない、あたたかいはず、なのに。
「だめ、だ」
「なにが」
「もう、だめ。ごめ、んね、」
「ッ、ざけんな、お前これつけて、言ったじゃねェか、生きて帰ったら、」
これ、そう言って銀時が握りしめたのは、私がいつかに無理矢理と言っていいほど強引に結びつけた赤い鉢巻。 交換ね、そう言って勝手に銀時の白いそれを奪い取って、今は腰につけている。さっきも、触った。
なんて、言ったっけ。ぼんやりと思い返そうとしたけれど、それどころじゃなくなった。 すこしでも気を緩めたら、すぐにでも、この人と離れてしまいそうで。 この、豪雨に紛れてそっと涙を流す、愛しい人と。
離れるのは嫌だ、残してしまうのは、いやだ。 銀時が泣くのは嫌だ、銀時は、笑っててくれなくちゃ、いや、だ。 そっと目元をぬぐうと、少し驚いた顔になった銀時が面白くて、笑って見せた。顔が言うことを利かない、けれど。 ねぇ、大丈夫だよ。そんな顔をしないで、笑わなくても、いいから。でもどうか泣かないで。
だいじょぶ、ちゃんと動いたかわからないけれど、もう一度だけそう呟いた。
「ぎん、」
「もう、しゃべんな、頼むッ、頼むよ」
そう言って銀時が私の手首を掴んだのを、見た。見ただけだ。 掴まれた感覚はなくて、手についたはずの銀時の涙も、ぬくもりも、感じなくて。 視界がまぶしくなっていくだけだ、体が宙に浮く感覚に、つつまれる、だけだ。
最期に、笑ってくれたら。 そう思って見た先の銀時はやっぱり、ひどい顔で。しかたないなぁなんて思ってまぶたを下ろすと、 勝手に口をついて、ぎんとき、そう溢れた。最期まで、銀時ばっかり、だったなぁ。 口元が力を失って、それでも笑えたということだけは、苦しいほどわかった。
どうか笑ってほしい、泣かないで、ほしい。 雨が嫌いだと顔を歪める銀時には、それなりの愛しさもあったけれど、 でも私は、太陽を後ろに従えているみたいに笑う銀時が好きだよ、 照れたように、呆れたように、笑う銀時が、こらえるのを諦めて、思い切り笑った銀時が。
「、」
まぶたはもう重たくて開けられそうにないけれど、君の温もりも感じられそうにないけれど。 それでも聞こえてくる、あたたかいとしか形容できない声に、私はすべてを手放した。
去る君へ
(最期に聞こえた雨音と、名前を呼ぶ声に)(強く強く、祈った)(どうか彼の上に、太陽が戻りますように、)
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