地球、か。ぽろぽろと記憶のかけらが溢れてくるようだ。
おっさんになろうとじじいになろうと、それこそ死に際にさえ思い出すんだろう。
自分よりずっと若い隊長が、これでもかというほど楽しそうに任務遂行のため地球人を殺していくのを
阿伏兎はぼんやり見ながら物思いにふけっていた。気づいたらもう終わっていたらしい。
手についた血を赤い舌でぺろりと舐めると、神威は阿伏兎に声をかけた。
「阿伏兎、なにその顔」
「…あァ?生まれつきだ、汚ェ顔で悪いが」
「そうじゃなくってさ。魂抜けてるみたいだったヨ」
まだ若い姿を見ながらまぶしそうに目を細めると、阿伏兎は自嘲するようにふっと笑った。
魂ねェ、繰り返す言葉には力がなかった。自分で吐いた言葉ながら笑えてくるほど情けねェ。
首を傾げた神威は次の言葉を催促しているらしく、阿伏兎はぼんやりと昔の記憶をたどり始めた。
「隊長にはつまんねェ話さ、おっさんの昔話だからなァ」
「ふーん、阿伏兎がそんな呆けた顔するなんて面白い話なんだろ?聞かせてよ」
ちょうど任務も終わりだ、神威がそう言うと、やり残したらしい一人の男が神威に襲いかかった、
が、次の瞬間には地面に臥していた。
こりゃ大人しく話した方がはやそうだ、わァったよ、と吐き捨てるように言って、ぽつりぽつりと記憶を話し始めた。
夜兎と地球人の間に生まれた子がいた。
母親は地球の、どこか小さな村の生まれで、その村で一番の美人だった。
ちょうど彼女が成人になった頃、天候不順で作物が育たず大飢饉になり、疫病もあって次々と村人が倒れていく。
お決まりの儀式が行われたという。村で一番美しい娘を、神に捧げよ、と。
彼女が山の上のお社に置き去りにされたとき、彼女には親も兄弟もいなかった。幼い頃に皆病で亡くなってしまったのだ。
それならもう私もせめて村のためにこの命を果たそうと、ただひっそりと命を遂げようとしていた。
数日経って彼女の意識がもうろうとし始めた頃、雨の日だった、一人の男が現れたという。
たった一人で、傘一本でお社を壊し、疫病が蔓延していた村すべてを壊滅させた。
男は彼女を看病し、そのおかげですぐに元気になった。
男は随分昔、まだ幼い頃に親に修行の一環で、身一つでこの山に捨てられ迷っていたとき、彼女に救われたと話した。
彼女もまた、その男を覚えていた。身内がおらず寂しい思いをしていた彼女と、短い間ではあったがたくさん遊んでくれた。
男は当時数日してから星に帰ったが、そのときからずっと忘れられず、このときたまたま地球に用があって村に立ち寄ったら
偶然彼女を見つけ、助けたのだった。ふたりが恋仲になるのにそう時間はかからなかった、二人は地球を離れた。
「…そんで生まれたのが、って娘だ」
「へェ、地球人と夜兎のハーフってやつだ」
「ガキの頃から一緒に育った。俺の親がの親父に助けられたことがあるとかなんとか」
年も近く、よく遊んだ。それこそ朝から日が暮れるまで。
アイツに戦闘を教えたのは俺だった、地球人の血が混ざってる所為だろうか、そう強くなることはなかった。
まわりからは役立たずだなんだと罵られてよく泣いてたか、そのたび俺のとこに来て、戦いたくなんかないと、言った。
「アイツは戦いが嫌いだったよ、だが全くの役立たずってほど弱ェわけでもなかった」
「なんせ阿伏兎直伝だし?」
「…あァ」
茶化すように言った神威に、阿伏兎はようやく笑った。昔のことを思い出すのは久々だからか、頭が痛んでいけねェ。
気づけばあたりは暗くなっていた。ぽつぽつと雨の音が聞こえる。日よけの傘は途端に役目を変えた。
あァいよいよらしくなってきた、あの日もこんな雨だった。
ぱらぱらと何でもないように、こんな程度なら止んでくれりゃァいいのにと、雨が降っていた。
今の神威より少し若いぐらいのときだったか、戦闘の強くないは無理だったが、阿伏兎は春雨に入った。
あちこち飛ばされまくりで、新人も新人だった。それでも誰よりもは喜んで、たまに家に戻ってやると嬉しそうに笑う。
戦闘力は父親の血を継げなかったみたいだが、美しさは、村で一番だったとかいう母親の血を継いでいたと思う。
俺が知る限り、どこの誰より美しかった、美しくて、どこか儚げで。
「雨が降ってた」
「……春雨に入団したとき?」
「いや……、ちょうど隊長くらいの歳の時だったか」
今でもその日、そのとき、その場面はずっと鮮明に思い出せる。
……おっさんになろうとじじいになろうと、それこそ死に際にさえ思い出すんだろう。
訝しげな表情で見てくる隊長から視線をそらし、傘を閉じた。ぼさぼさの髪が少しずつ濡れていく。
神威は目を細めて、黙ってみていた。阿伏兎の顔は、魂が抜けたようでも、呆けた顔でもなかった。
神威の知らない顔、今まで一度だって見たことのない表情。だがどこか見覚えがあった。
雑に記憶をあさると、遠い昔に見つけた。幼い妹が涙をたっぷり目にためて俺を見送ったときの、あの表情によく似ていた。
阿伏兎、と呼びかけようとしてやめた。阿伏兎がしゃがみ込んで頭を垂れたからだ。どうやら俺に顔を見られたくないらしい。
また少しずつ零し始めた言葉のひとつひとつが、静かな雨の音と一緒に頭に刻み込まれていくようだった。
阿伏兎が帰ったときには雨はまだ降っていた。地面がぬかるんで煩わしかった。
なにもなかったと言えば嘘になる、だが、胸騒ぎがした。帰ろうと思ったのはただそれだけの理由だった。
いつもはぶらぶら立ち寄るが、そのときはまっすぐにの家に向かった。ただただ会いたいと、柄にもねェが、思った。
ぼろっちいの家の戸を開けると、家の中は空だ。なにも、なかったのだ。まるで今までの何年もがなにもかもなかったかのように。
すぐにそこを離れてあたりをそれこそ駆け回った。あんなに必死だったのは後にも先にもきっともうない。
胸騒ぎがした、ただそれだけであればよかったのに。
「――、」
「あぶ、と、」
家の集まる場所から少しはずれた場所に、探し求めた姿はあった。
の周りには見覚えのある女、子ども、老人どもが、眠るように横たわったいる。
ただ眠っているには可笑しかったのは、ぬかるんだ地面が赤に染まっていたことだろうか。
の隣のガキが涙をひとつこぼして息を止めたことだろうか、が仲良くしていた女がうめき声をあげなくなったことだろうか。
「…なんだってんだ、こりゃァ」
「辰羅族のやつらじゃ…、」
見覚えのある老人が親切にも教えてくれた。
春雨第四師団所属の辰羅族が、この集落へきて村の者を殺しなにもかもを奪っていったという。
残りわずかな命の持ち主達が絞り出すようにわけがわからないと話すと、一人また一人と息を引き取っていく。
俺にはだいたいの予測がついてしまったのだが。
数日前、春雨内でもめごとになって夜兎のやつらが辰羅のやつらを殺しちまった。
独り言のようにそう零すと、話をしてくれていた老人もそうか、と悲しげな声を出して眠るように目を閉じた。
「阿伏兎が、無事でよかった」
こんな場合じゃァ不吉なほど美しい顔に笑みを浮かべて、はそう言った。腕の中でゆっくりと呼吸をする体はあたたかい。
抱き起こした半身から止まらず血があふれ出ているのをぼんやり眺めていた。夢みたいだ、と、意識が飛んでいきそうだった。
「俺がそんなくだらねェことで死ぬように見えるか」
「阿伏兎は、やさしい、からね」
「気味悪ィこと言うんじゃねェよ」
痛みに顔を歪める姿さえ美しかったと言えば、ばからしく聞こえるだろうか。
阿伏兎、と俺の名を呼ぶ声が綺麗だった。まるでてめェが綺麗な人間になったみたいな気分に浸った日もあった。
だけだ、美しくて儚げで、戦いが嫌いで、行ったことのない地球についてあれこれ調べては好きになっちまったのは。
いつか阿伏兎が偉くなったら地球に連れて行ってね、と何度言われたことか。
地球も好きだけど、阿伏兎がいるこの星も、夜兎も好きなんだよ。彼女がそう言ったのはいつだったか、走馬燈のように記憶が巡る。
死にそうなのは俺じゃねェってのに、なんだってんだ。
「阿伏兎、星が綺麗だよ」
「なーにを、言ってんだ…このすっとこどっこい、」
「ねぇ、阿伏兎。月が綺麗ですね、って、言うんだよ」
「…なんだって?」
まぶたが重たいのかの大きな瞳はいつもの半分ほどしか見えない。
夜兎特有の透き通るように白く、母親譲りの美しい肌は血にまみれたのを、半端に雨で洗い流されて汚くなっている。
どうすりゃァ俺の腕の中の女は体温を上げて、血が流れるのを止めて、今にも消えそうなのをやめてくれるのか。
夢の中のできごとのように、俺は何も出来ずにいた。
苦しそうに、それでもゆっくり言葉を紡ぐ体はまだ温かいのに。まだ彼女は微笑むことが出来るのに。
「月が、綺麗ですね、って…、ね、あぶと、」
「……?」
はぱたんとまぶたを下ろした。阿伏兎、と俺の名を呼んだその続きはもう聞こえなかった。
月なんて見えやしねェが、星なんて雨上がりのせいかあちこち輝いてやがる、むかつくほど、綺麗だ。
なんだってこの女は死に際に見えてもいない月の話なんかしたんだ、その問いさえもう聞けない。
俺はただ、、と名前を呼んでは返事を待って、ありもしない月を探した。
お前が今空へ行ったはずだから、月ぐれェ綺麗なものじゃなきゃ、納得できねェ、から。
「――阿伏兎、泣いてるの?」
「なァに、おっさんってのは涙もろい生き物なんだろ。見逃してくれ」
けらけら笑ってくれりゃァいいものを、変なときだけ大人になったモンだ。
ぬかるんだ地面にぺっ、っとつばをくれてやった。雨に混じってわかりゃしねェ、が。
「人生は重要な選択肢の連続だ、」
お前に出会わなかったらと何度も思ったが、それなら今の俺はいないんだろう。
今、こんなにも、何年もの間たった一人の女を求めるような野郎にはなっちゃいなかったんだろう。
まるで何事もなかったかのように日々は過ぎたし、なんでもないように生きて、とうとうおっさんになっちまいやがった。
好きだと、たった一言が言えなかった。
隣からその姿がいなくなることを柄にもなく恐れていたのか。
本当にいなくなってしまうことがあるなんて忘れてしまっていたのは、種族故か。
その血筋故に生きづらい思いを何度もしたアイツに、こんな自分の驕りを知らせる日は来ない。
謝ることさえできやしねェ。その代償とでも言いたいのか。こんなに思っても伝えられないままだ。
もし出会わなかったら、もし一緒に育つことがなかったら、もしお前が戦いに長けていたら、
もし春雨に入らなければ、そんなあり得ないことを積み重ねてはぶちこわして生きてきた。
「情けねェ、」
俺はになにをしてやれただろうか、ガキの頃から俺のことを真っ直ぐに見てくれていたに、
なにか返せただろうか。喜ばせてやれただろうか。浮かぶのは、アイツが笑う姿ばかりだ。
もう地球を見ることはできただろうか、連れて行ってと言ったくせに、なァ。
涙で歪む視界が煩わしく、殴るように手を出した先の地面はあの日と同じぬかるんだそれで、
あの日と違う色をしているのを確認してから、まぶたを下ろした。
逝く君へ
(もう一度だけあの温もりを願っても)(君は月が綺麗と零すばかり)
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