がらがらと戸が動く音がした。
ソファに体を預けてうとうとしていたところだったので、頭はぼんやりしていたが寝落ちしそうになっていた重たいまぶたをこすってから、 なんとか体を起こした。 帰ったぞー、と間延びした声で居間に入ってきたこの家の主を見ると、私はせっかく開けたまぶたを閉じたい気持ちになった。

「……」
「なんだよ。ただいま」

思わず閉口してしまったが怪訝そうな顔をする銀さんを見て、ようやく私は脳みそも起こす気になった。

「…おかえりなさい」
「その目はなんなの?記憶喪失でもしたの?」
「なんでスーツなの胡散臭いって目です」
「随分攻撃的な目だなオイ…仕事だよ仕事」

そう。なぜわざわざ開けたまぶたを閉じたくなったかというと、私の記憶上ではこれまで見たことがない格好をした銀さんがそこいたからだ。 黒のスーツを着てびしっと決めている銀さんは心なしかできる人に見える。見えるだけだけど。 そういう私の気持ちが視線に表れているのが伝わったのか、片眉を上げて少しだけ拗ねたような顔つきになった。 そんな顔をしても胡散臭いもんは胡散臭いのだ。

「なんの仕事ですか」
「あーなんだっけ、どっかのホテルの手伝い」
「…へー」
「なに、その目」
「銀さんに仕事頼むなんてよっぽど…って目です」
「お前ね…銀さんは器用なんですぅー」
「知ってますけど、胡散臭い感じたっぷりだし」
「そんな胡散臭い?ねえそんなに?ちょっと傷つくよ?」

どっかのホテルって。さっきまで働いていた(らしい)のにやる気のなさが見え見えだった。 まぁそれが銀さんらしいとも思うのだけど。それにしても見慣れないその姿になんだか心臓のあたりがそわそわちくちくした。 落ち着かない気分をおさえるつもりが、つい思ったことをそのまま言ってしまい、それが銀さんの心に刺さったらしい。 なんとなく、おあいこだなんて思ってすこし心臓のちくちくが減った。気がした。

「…似合うけど、似合わない」
「…は?」
「スーツ」
「あー、まあ借り物だしなァ」
「?誰のですか」
「ホテルの。クリーニング出して返す」

話しながらジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩める姿は少しだけ様になっていた。それがまたすこし心臓にとげを増やした。 素直なんて二文字が生まれたときから欠落している私には、この違和感を解消するすべをあまり持っていない。 だが借り物だという銀さんの言葉に甘えることはできそうだった。幸いクリーニング代も相手持ちだという。

「なるほど。じゃあぐしゃぐしゃになってもいいんですね」
「は?別にいいけ、どっ!?・・・おい、なに、どーしたの」

慌てる銀さんをよそに、その懐に飛び込んでぬくもりを享受し、ほんのり甘いような、 それでいてお日様みたいなあったかいにおいに酔いしれたときにはもう胸のいやな感じは忘れていたのだった。

「銀さんの匂いがするー」
「はあ?そりゃまァ、なァ…」

白いシャツ。変な模様のネクタイ。シャツの隙間からのぞく肌色。全部私にとってはミスマッチだ。 それでもこれも銀さんだ。 昨日の夜眠れないと唸って布団を蹴飛ばしていたあの姿とはかけ離れていても、このにおいは変わらない。

「銀さん、銀さん」
「なーに」
「おいてかないでくださいね」

ずっとこうして独り占めできたらいいのに。そんなこと絶対言いはしないけど。

「……勝手に不安になってんなよばーか」
「スーツ、似合ってますよ、むかつくくらい」
「あー、そ。お前は着物がよく似合うよ」
「苦しいから好きじゃないです」
「知ってる」

寝間着のままソファでうだうだしていたから、着物は昨夜から布団の横にたたまれたままだった。 あの着物は銀さんが最初に私にくれたものだ。淡い色の、銀さん曰く「安物」だけど、私にはどんな高級なものより大切な、もの。

「……着る」
「はいはい。着付けてやっからもっといで」