忙しなく鳴き続ける蝉の声に暑さを増された気になって、首元をぱたぱたと仰いだ。暑い。 久しぶりに舞い込んだ仕事に意気込んで家を出たはいいものの、 は拗ねたように布団から出てこなかったし、仕事そのものも大したやりがいもなく ――そこそこの金をもらえたのが救いだが――家に帰ってもやはりと言うべきかはおらず、 たいして疲れてもいない体をただなんとなく河原へ向かわせた。 甘味処とかファミレスとかコンビニとかスーパーとか、が行けそうなところは他にもあるが、それでもあえて河原を選択したのに主立った理由はなく。 ただなんとなく、こんな暑い日の夕暮れにあいつならクーラーを嫌うはずだと、直感が教えてくれた気がした。 ぼんやりと仕事内容を思い出そうとしながら河原へ向かう道は退屈で、こんなに遠かったかと思った。 がそわそわしているときはたいてい外に出かけたい時で、 甘いもんでも食いに行くかといえば珍しく目を煌めかせる。目の輝きに関して人のことはいえないが。 あいつは甘いものが得意ではないはずだから、ただ単に外に出るのが嬉しいのだろう。 今朝仕事に出る前あいつは拗ねていたがその理由を探そうと思い返せば、昨日の夜からそうだったな、と気づく。 明日は仕事だ、と告げたら、それまでへらへら笑っていた顔をしかめ、急に声色を変えた。 どれくらいかかる仕事か、大変か、安全か、とか珍しく質問攻めにされた。 前の仕事の時は――どれほど前かは思い出したくもないが――たいした興味も示していなかったように思う。 最初こそそれらの質問に適当に答えていたが、 夜も更け、朝は早いため眠気には逆らえず夢に旅立った俺には、当然その後のの機嫌など知る由もなかった。 朝起きた時となりで布団にこもっていた様子を見たところ、ヘソを曲げたのは明らかだった。 そこからようやく仕事のことにまで思いをはせることができたが、思い返したところで大した出来事はなく、 記憶に残っている出来事もない。それこそとのやりとり以外は。 今日という日がまるでの機嫌を損ねるためだけの日だったかのように、何もない日だった。 どうしようもねえな、とため息をつく。ゆるゆるとした足取りで見慣れた河原にようやくたどり着いた。 あの日、河原の橋の下にあいつが"落ちてた"のを"拾って"から、毎日が激変したといってもいい。 それまではたいてい1人で暮らしていたんだから当然ではあるが、自身が変わっているせいもある。 やはりと言うべきか。は橋の下のジメッとしたところに膝を抱えて座っていた。あの日と同じ場所。 そこがお好きなようで?と一度くらいは尋ねたほうが良さそうだな。今度聞いてみるか。 声をかけようとしたものの今朝の拗ねた姿がふと思い出されてどうすべきかなんとなく迷っていると、 なぜか裸足でいたらしいが川に入っていった。 風に吹かれて髪がなびく。あの日ぼさぼさで、栄養不足のせいだろうが艶もなかった髪が嘘のようにきれいになった。と思う。 きれいな黒髪だ。ストレートなことを俺の天パと比較してよく得意げにする。毎度腹立たしい。天パに罪はねェ。 夕暮れも良い頃合いで、川面にはきらきらと光が反射し、空は橙色に染まっている。 あっちー夏だ、と思っていたが、夕方になると風が気持ちいい。 …と、確かに夏だから気持ちいいだろうが、そんなに綺麗でもねえ川によく入るな、と思って眺めていると、 はバシャバシャと水を蹴ったり投げたり、一人で遊び始めた。 何やってんだか、と見ていたのも束の間、思いきり振り上げた足で蹴りあげようとしたがバランスを崩して、傾き、あのバカ、と思った時にはもう自分も川の中にいた。 「……なーにやってんの」 「あぁ、仕事終わりましたか?」 「だからいるんでしょうが」 「よかった」 「よかった、ってお前な…一人であぶねーだろ」 いることにたいして驚いた様子も見せず、俺の上に着地したは無表情だった。 転けたの下敷きのように川に尻餅をついた俺は、案外この川が浅いことを知った。 それでも流れは遅くはないから安全とも言えないだろうに。 どこか魂の抜けたような顔でこちらを見ようともしないを見ていると、ぽつりとこぼした。 「さみしかったです」 「……はあ?」 なんだやけに素直だな、と思うと同時に、自分が抱きとめている存在の温度が普段より高いことに気がついた。 嫌な予感がする。こいつの体が大して丈夫じゃないのは近頃なんとなくわかってきたところだ。 「おい、」 「銀さんびしょぬれじゃないですか」 「おめえのせいだっつーの」 「あはは」 無表情に少しだけ色がついた。少しだけ――絵の具を水で薄めに薄めた一滴分くらい――だが。 「おまえ熱あるだろ」 「さぁ」 「さぁって、自分のことくらいわかれ、暑いかどうかだよ」 「そういえば暑いような」 「よし、帰るぞ」 を起こしつつ一気に川から立ち上がると、ぐったりとした様子でもたれかかってきた。 オイオイ、これでさぁとか言ったのかこいつ。アホじゃねーの。薄々思ってたけどアホじゃねーの? 「家に着くまで我慢しろよ」 「オッケーです」 「バァカ」 「うわ、今の言い方悪意に満ちあふれてますよ」 「悪意を込めたんだよブァァカ」 「どうしようすごい腹立つ」 「早く元気になって言い返す言葉でもストックしとけアホ」 「人のこと罵倒しないと会話できないんですか」 「なんだ元気じゃねーか置いてくぞ」 「すいませんでした」 ごちゃごちゃと口数の増えたを俵のように肩に掲げて運んでいたら道行く人の視線が痛くなり、 の「通報されそうですね、人さらいみたいで」と言う言葉が決め手で仕方なく背中におぶって帰ることにした。 ふたりとも水に濡れて気持ち悪ィだろうが、と思って言ったが、体温の高いを背中に乗せているのに、夏のくせに、なぜかそこまで不快ではなかった。その上は「銀さんあったかい」などとぬかすものだから。 「おまえもっと飯食えよ」 「食べてますよもりもり」 「朝飯も食え」 「…食べてます」 「飲み物はご飯じゃありませんー」 「牛乳めっちゃ噛んで飲んでるから食べ物です」 「うるせェ明日から米食わす」 「朝はパンでしょ」 「CMか」 細ェなと思うときは前にもあったが――それこそ"あの日"から思っていることだが――背中に乗せても たいした重みを感じないと余計にそう思った。おまけに腰をつかんで川から立ち上がらせたとき、両手が回りそうだと思った。 消えそうだ、と思ったのは日が反射してきらめく川面を揺らしている、その横顔を見たときだ。 きれいになった髪に隠されたそれが、風に吹かれるとあらわになって儚く思えた。 口を開けばそんなことは思わないんだが。 「」 「はぁい」 「明日どっかいくか」 「しごとは?」 「明日はねェよ」 「…いきます」 「おォ」 今日は悪かったよ、と独りごちるようにこぼすと、今日はありがとうございました、と軽快な声が帰ってきて あぁこいつには勝てねェなと思った。 せめてこの体温が消えてなくならないようにと祈って。 戻 |