思えば、その笑顔があれば、ただそれだけで良かったのかもしれない。
数える気もなくすほどの命を失って、大切なものとやらがガチガチに固めたはずの拳から逃げ出すようにこぼれていって、
いったいなんのために戦って、なにが自分を生かしているのかわからなくなった、とき。
おはようとか。おやすみとか。頑張ろうだの、またあとで、だのと、
戦場には随分不似合いな優しい言葉の数々に添えられた笑顔があった。
優しいような、あったかいような、到底言葉では形容しきれないそれに
溺れるように縋って、甘えきっていたのかもしれなかった。
差し伸べられる手は自分のものよりずっと小さくとも、
敵に向かって飛んで行く後ろ姿がどの仲間より頼りなくとも、
細く儚く消えてしまいそうな横顔でも、
彼女の笑顔だけはどんな弱さをもすくい上げるようなそれだった。
上機嫌に酒を飲んでいたある夜、年寄りがするように思い出をぽつりぽつり零したことが思い出される。
彼女がちびちびと口をつける猪口は小さくボロいものであったはずなのに、
それが運ばれる薄い唇の、中身が流れるはずの場所の外見の、そうして緩く弧を描く口元のなんと美しいことか。
"こんな星の夜に抜け出して怒られたっけ"
"先生が怒るときはいつもお前がいる、って小太郎に言われたんだ"
からからと軽やかに笑う姿は確か、月明かりに照らされていた。
目を伏せて思いを馳せる姿を、どうにかしてこの目に脳に思い出に焼き付けようと、たったひとつの目で睨みつけるように見ていた。
楽しそうに自分と俺の猪口に酒を継ぎ足しながら、彼女はその夜よく笑った。
"…お前はよく笑うなァ"
"そうだねぇ、"
口元から溢れるように出て行った煙は月を目指して消えた。
この煙管をいつかの彼女が奪うようにとったと思えば吸って見せて、
やはりというか当然ながらむせていた。
バカか、そう言った俺にまた笑って、やっぱりだめかぁ、眉を下げて情けない顔。
…しかし至極、無理やりに形容して言うならば、そう、"幸せ"そうに、笑ったのだ。
思わず寄った眉間の皺に気づいてか否か、おそらく後者だが
いつものようにおやすみ、と笑って寝床へ戻って行った。
あァそういえば、その前に星が綺麗だよと零していたか。暇さえあれば空を見上げるのは彼女の癖らしかった。
戦のときの、雨がよく降った日のことだ。
ザァザァ降りしきる雨に打たれ、ぽつんと骸の山の天辺に佇む姿は幻かと疑ったものだ。
手に持つ刀から滴る雨、それに混じる赤。
俯いた彼女の黒い黒い、綺麗な髪を通って落ちる雨、それに混じった、涙。
名前を呼んだ。ひとりごちるように、まるで彼女の名を確認するかのごとく小さくつぶやいて、
それなのにまるで聞こえたかのように、細く儚い身体は骸の山に崩れ落ちた。
ガリガリと、もうとうに冷え切ったはずの血肉に爪を食い込ませて、
どうして、消え入るように呟いたのが聞こえた。
騒ぐ胸の原因はそのときわからなかった。たとえば骸の山に見知った顔があった、
杯を交わしたやつを見つけたとして、そんなときの胸の喧しさでは到底なかったのだ。
"望み通りでしょう、"
"ねぇ、神様"
仰ぎ見た空は無情にも彼女に雨粒を叩きつけた。
涙か雨かもわからないほど顔を濡らし、爪が食い込むほど握り締められた拳を地に叩きつけ、
吠える気力もないから虫の羽音みたいにか細い悲鳴を喉が鳴らしていた。
そうして目を伏せたと思えば動かなくなった彼女を、温もりを確かめながら、負ぶって寝床へ帰った。
彼女の好きな星も月も、雨雲に飲まれてしまった夜だった。
「――晋助、もうすぐ着くでござる」
「…あァ」
「この船は明け渡すのであろう、準備を」
「わかってる」
ゆらゆら燻らせた煙管はあいつがいつか吸ったものだ、目に涙を溜めて噎せたときの、
そのくせ笑ったあの日のものと、なにも変わっちゃいねェ。
落ちてきそうなほど重く暗い曇天は彼女が雨に隠して流した涙を思い起こさせる。
どうして、と零した声の細さ、神様、と青ざめた唇から落ちた心底冷たい声、心底憎しみに溢れた、笑顔。
知りようもなかった胸の喧しさも、その涙に、唇に、触れることができなかった、
あろうことか崩れ落ちる小さな背中に添えられなかった手も、今となってはもう過去だ。
思い出に昇華することさえできない、ただの過去にしかなり得ない哀れな記憶だ。
「晋助、お主に客人が」
「――"よく笑う女"、そういえばわかる、と」
悲しかったね
思えば、その笑顔があれば、ただそれだけでよかったのかもしれない。
「――変わりないようで、なにより」
燻らせた煙を見ていつかの彼女と同じように、目の前に現れた女は、そう、やはり"幸せ"そうに笑った。
悲しかったね
って君が言ってくれるから
"…お前はよく笑うなァ"
"そうだねぇ、"
いつかの日に骸の山で青ざめた唇は今、美しく、ゆがんでいた口元はゆるりと弧を描き、
冷え切った声は優しいもので、心底憎しみに溢れたあの笑顔は、欠片もなかった。
"そうだねぇ、晋助が笑ってくれるから"
(僕はいつでも泣いてしまうんだ)