本当は少しだけ、期待してたよ。
まさかそんな言葉が口に出せるわけもなく、はひっそり胸の内で零した。
待ち続ける人はきっともう二度と自分の元へくることはないだろう、ぼんやりとした頭で、
だが確かにそう思っては誰に向けるでもなく、そっと笑った。


なんてことはない、けんかしただけだ。謝れば済む、簡単なこと。
だがもちろんそんな簡単で、しかしかなりの勇気がいることができるほど、土方はできた人間ではなかった。
土方さんがプライド高いことくらい、わかってたんだけどなぁ。
苦笑しながら、は部屋のカーテンを開けた。まぶしい日が差し込んで、部屋に朝を届けた。









「だから、一人が悪いって言ってんじゃねェよ」
「夜にでかけるのがだめなんでしょ?わかってますよ」
「わかってねェから言ってんだろ、お前の夜の基準はおかしい」
「お、おかしいなんて心外です。最近は日ものびたし、八時はまだ大丈夫です!」


名前ではなくお前と呼ばれたことに、ひさびさだったせいかつい頭に来てしまった。
ぎゅっと眉根を寄せた土方さんが舌打ちしてやっと、自分が珍しく反抗したのだと言うことに気がついた。
総悟くんの言うとおりだ、とぽつりと零した後だと言うことにも。後悔先に立たずとはこのことだった。
視線をふいっとそらして、気を静めようとしたのかタバコをくわえた土方さんは、
中途半端な位置でライターを持つ手を止めると、じろりと私を見下ろした。


「総悟、つったか今」
「……言ってない」
「嘘つくなアホ」
「ひ、ひどい。ひとりごとです、気にしないでください」


そうもいかねェんだよ、と先ほどくわえたものに火をつけるとジャケットの中から携帯灰皿を取りだした。
私が家で吸わないでと頑なに拒否して灰皿を用意しないせいだ。
でも、私がそう言ってから今まで家の中で吸ったことなんて、なかった、のに。


「アイツがなんて言ったって?」
「……ひ、土方さんは過保護だって。私を見る目が、妹や娘を扱うみたいだ、って」
「…で、てめェは」


その通りだと思ったってか。
さぁっと全身の血の気が引いていったのに気がついた。
その言葉にだけでなく、声の低さ、冷たさが、今まで聞いたこともないほど他人のそれだった。
てめェだなんて、呼ばれたこともなかった。それがよかったとか悪かったとかはない、ただ、
今はじめて聞いたその呼び方は、まるで大嫌いな人物に向けるもののように思えてしまったから。


「……っ、あ、の、」
「今日から捕り物がある。終わり次第連絡させる、じゃアな」


ぐしゃりと携帯灰皿にタバコを押し入れて、土方さんは足早に家を出ていった。
いや、足早に見えたのは私の思考が止まっていたからか。残酷なほどに、いつも通り、普通に、出ていってしまった。

気づいたら床に座り込んでいた。立てそうにない。全身の力が抜けて、血の気も引いたままだ。
あんなに冷たい声は聞いたことがなかった、あんなに冷たい目は見たことがなかった。
はじめて聞いたぶっきらぼうな呼び方はひどく冷たかった、はじめて行ってらっしゃいを言えなかった。


「土方さんの、ばか」


悪いのは土方さんじゃない、私だって、ずっと言い方が悪かった。
わかってても止められなかった私に非がないなんて、到底言えない。
ぼんやりと土方さんの出ていった方を眺めたまま動けずにいると、時計の鐘が朝を知らせた。
はっと我に返ると、つい自嘲するような笑みがこぼれた。きっと彼は、戻ってこない。

連絡させると言った、彼は連絡をくれないのだろう。それも捕り物が終わるまで。
たしか昨晩、今回のそれは大変だと零していた。時間がかかりそうだ、とも。
具体的な時間は聞いてはいない、けれど一週間は帰らないだろうなと思ったのを思い出した。
それどころか、きっともう、二度と自分の元へくることはないだろう、ぼんやりと思って、つい、笑った。









目が覚めたのは、ポケットに入れっぱなしにしていた携帯がけたたましい音を立てて鳴ったからだ。
気がついたら机に突っ伏して寝ていたようで、本はしおりを挟んだままぺらぺらと風にめくられていた。
こんなに大きい音にしてたっけ、と寝起きの頭で考えながら、急いで電話に出た。


「もし、もし、」
「あァ、寝てたんですかィ」
「…そ、そうごくん?」
「いきなりすいやせん、ちょっと聞きたいことが」


寝起きに聞くのも何ですが、と付け足したわりに、彼は考える間もなく質問を飛ばしてきた。
携帯のディスプレイには確か山崎さんと出ていたはずなのに、
そもそも今は捕り物にでていて忙しいはずなのに、
というかなんで後ろからいらっしゃいませとファミレスで鳴ってそうな音楽が聞こえるのか。
聞きたいことは山ほどだったが、総悟くんが聞いてきた質問に、一気に頭が真っ白になった。


「今朝、口げんかでもしたでしょう。おかげであの野郎使い物になりやせんぜ」
「……もの、って」


ツッコみたいポイントではなかったけれど、絞り出せた言葉はそれしかなかった。
ただ、相変わらずだねなんて言葉はのど元でつかえてでなかった。
言ったところで、そちらは珍しいですねィとさらに追及される気がしたからだ。


「まァ面白いからいいんですがねィ。で、けんかの原因は」
「…些細なことなの、なのに私がこどもだから、怒らせちゃった」
「へェ、さんってこどもなんですかィ」
「総悟くんだって言ってたじゃない、土方さんの私を見る目は妹やら娘を見るみたい、って」
「はて、そうでしたっけね、覚えてやせん」


え、と慌てて言うと、ふっと笑ったのがわかった。
冗談でさァ、とまた笑うと、総悟くんは戸締まり気をつけてとか寂しくなったら電話してくだせェとか言って電話を切った。
え、でもそれ山崎さんのだよね、とまたしても聞くひまをくれないまま。

結局何の用事だったんだろうか、と混乱していると、日が沈んでしまったことに気がついた。
そんなに長電話をしたつもりはなかったから、結構長い間寝てしまったのかと時計を見た。どうやらそうらしい。
ぼんやり物思いにふけるのは性に合わなくて、もやもや悩んでも今は仕事中だろうし、と割り切って
本を読み始めた。それにしても、退屈な内容だったのでほとんど読まずに寝てしまったのだけれど。


夕ご飯、つくらなきゃな。
ぽつりと呟いて、重たい腰を上げた。目は冴えても頭はどんどんぼんやりとしていくようだ。
あぁ今日は自分の分だけでいいんだ、と台所に立って気づいて。
特にお腹が減っていないので、水を飲んで寝ることにした。今は、なにも考えたくない。







手を伸ばしたら届いてしまった。少し触れただけなのに、触れた先の人は振り返って笑った。
あまり見たことのないそれだった、困ったような、呆れたような。
かっちりと着込んだ黒い隊服は彼によく似合っていた。
タバコは嫌いだったが、彼が胸ポケットからそれを出す仕草はなぜか好きだった。


「ひじ、かたさ、」
「どうした」


ぼんやりとどんどん重みを増す頭に手を乗せると、額が熱い。知恵熱、だろうか。
幻聴まで聞こえたのだから、風邪でも引いたかもしれない。彼が今、帰ってきてるはずがないのだから。


「呼んでおいて無視か」


冷たい私の手に触れる温かい手があった。私の額の方が、ずっと熱かったけれど。
手が持ち上げられていく感覚に合わせて、ゆっくりと重い重いまぶたをあけると、夢で見た人がそこにいて。

いい、ゆめ、
掠れた自分の声が聞こえる。本当は少しだけ、期待してたんだよ。
そんなわけねェだろ、なんて、笑う貴方を。
妹なんて、ましてや娘だなんて、思ったこともねェよ、って、もしかしたら、言ってくれるのかな、なんて。
ごめんなさい、ごめん、ね。目尻から溢れた滴が耳へ入りそうで、気持ちが悪かった。


「夢じゃねェっての、起きろ


ぐいっと引っ張られる感覚を味わう頃には、すっかり大好きな人の腕の中にいた。
一日中焦がれた優しさに、涙は止まりそうにない。
ぽんぽんと小さい子をあやすような背中をたたくリズムに、不本意ながら心地よくなった。


「目ェ覚ましたか?頭のてっぺんから足の爪先まで神経とがらせろ、二度と言わねェからな」





ひとつ、





え、と聞き返す前に、ぐらりと視界がゆがむ前に、体中の熱が上がる前に、
ぎゅう、と抱きしめる力を強めた彼を、妹や娘なんかじゃ耐えられないような、大きな愛をくれた彼に。