朝はそれほど早くない。とは言ってもゴミ出しの日はそれに間に合うように起きるから、鳥の囀りが聞こえる。
冬の朝らしく薄く靄がかかって、そこに陽が当たりキラキラしているのを見ながら白い息を吐いた。
生まれてから海というものを見たことがないが、冬の朝の海もこういう景色なのだという。
こんな路地裏の汚ねえもんとは比べもんにならねえよ、と教えてくれた彼は鼻で笑っていたけれど、
その笑みはどこか慈しむようで、少しだけ出会ったばかりの頃より柔らかく感じた。

おはようございます、と近所の人に挨拶をしつつゴミ出しを終えて店に戻るとお登勢さんが起きてきたところだった。
相変わらずあんたは早いねェ、と口元を緩める彼女に、お登勢さんこそ、と笑って返して、二階の彼を起こしに向かった。
昨夜、いつもより酒の量を抑えた彼に理由を尋ねると明日は朝から仕事なのだと言っていた。
珍しいなとつい目を丸めたら失礼だと軽く頭を叩かれたっけ。
それで、起きられそうにねェな、とぼやく彼に起こしましょうかと尋ねると急に頭を叩いたことを謝るものだから ついクスクス笑ったんだった。

「銀さん、」

建てつけの悪い引き戸を動かすと冬の朝に似つかわしい音が鳴る。
冷え切った廊下を何とはなしに忍び足で歩いて寝室へ行くと惰眠を貪る姿を見つけた。
頭の上の目覚まし時計は哀れにも叩かれた衝撃なのかわからないが電池が転がり落ちている。
寝坊する気満々にしか見えない。

「銀さん、起きて」

揺するとかすれた唸り声が聞こえて不覚にも心臓が跳ねた。
銀さんがここに来てから、たまに起こるようになったこの現象を私はよくわかっていない。
お登勢さんに聞いてみても、自分で考えるものだと突き返されてしまった。
まだ寝るとごねる彼の布団を無理やり引っぺがしてカーテンを開け、朝日を浴びさせた。
ぶつくさ文句を言う人に少しムッとしながらも水を入れてきて渡す。もう大丈夫そうだ。

「じゃあお仕事頑張ってくださいね」
「あー…」
「?…朝ごはん食べますか?」
「いや、」

歯切れの悪い銀さんを不思議に思って首をかしげると、ちょいちょいと手招きされた。
着替えも途中で寒くないのかと思ったがおとなしく側に行って座ると、
しばらく視線を彷徨わせてから銀さんは私の頭に手を置いた。
ずし、っと加わった軽い重みについぱちぱちと瞬きを繰り返した。

「起こしてくれてありがとな」

そういうと銀さんは雑に頭を撫ぜてくれた。
びっくりして顔色を伺おうとした私に気付いたのか、上を向かせないように力を加えながら。


***



その日の夜、いつものようにお店に出て常連さんの相手をしていると途端に外が騒がしくなった。
警察沙汰のようなそれではないが、誰かが派手に転んだような、そんな音が続いて、パタリと静かになった。
お登勢さんと顔を見合わせどうしたものか考えていると、見ておいで、と視線を送られた。
生憎お登勢さんのお客さんは今愚痴の真っ最中で放ったらかしにはできなそうだった。
私のお客さんにおつまみを差し出してから上に羽織って戸を引くと、
そこには看板や捨てられていたのであろう段ボールが散乱するばかりでその元凶がわからない。
はて、と首を傾げて店に戻ろうとすると、階段に、見つけた。その元凶を。

「…銀さん?」

階段の途中で疲れ果てたように座り込んで、というより、倒れてそこに身を投げ出したような様子の銀さんを見つけた。

「お仕事お疲れさ、」

珍しく朝早かったからといってこんなところで寝て、と注意しようと思い起こしに近寄ったら、寝ているのではない。
本当に、見たまま倒れているのだと、階段から滴る赤い雫を見てようやく気づいた。

「銀さん!」
「水…くれ、」

薄く目を開けた銀さんに着ていた羽織を着せて、店に急いで戻った。
お登勢さんが驚いた様子でなにがあったのか視線で聞いてきたが、答えている余裕はなかった。
コップに水を入れるだけなのに、手が震えているのに気づいてしまう。

「(あの日といっしょだ)」

お登勢さんの旦那さんのお墓参りに行ったら、そこにいた人。
ただそれだけで変わった生活が、時が過ぎたこの頃は心地好いものになっていたけれど、
最初こそ毎晩怖い夢を見ては夜中に目を覚ましていた。
洗っても洗っても落ちない血の赤。固まったそれ。痛みに顔を歪め、うなり声を微かに零す姿を何度も夢に見た。


震える手を抑えて外に出ると冷たい風が着物の隙間から体を撫ぜた。
この震えは寒さのせいにしてしまおう、でもそれなら、滲んで揺れる世界は何のせいにしたらいいのだろう。

「お水、」
「…さんきゅ」

コップを受け取る手には傷が付いていた。水を飲む様子を見ていると、顔にも切り傷や殴られたのか痣が見つかる。
着物はボロボロで、よく見れば黒いブーツに赤い血がついている。

「どうして、」
「…あ?」

痛そうに顔を歪めた銀さんはいつにも増して愛想が悪い。
怖い人ではないのだとわかっていても思わず震える声で、今言わなくてもいいとわかっているのに、
ずっと思っていたことを言ってしまっていた。

「いつも怪我ばかり、なんで…もっと、自分を大事にして、」
「…お前にゃ関係ねえだろ」

責めるような声になってしまった私に、銀さんは一瞥をくれ、ぼそりと冷たい声をこぼした。
ひやり、心臓を氷水に入れられたような感覚。
ごめんなさい、ちゃんと、言うつもりだった言葉は掠れてろくに聞こえなかった。
水のなくなったコップを銀さんの手からひったくるように取って、顔も見ずに店に戻った。

お客さんはもうまばらになっている。気づけばまもなく店じまいの時間だ。
コップを持って何も言わないまま奥に戻る私に、お登勢さんが浅く息を吐いた。

「あんたらはどうしてこう、不器用なのかねェ」

ガラガラ、と戸を引く音。お登勢さんがお客さんを帰している。
洗い場でコップを抱えたまま蹲っていた。
銀さんみたいに力が強くなくてよかった、きっと握りしめたコップが割れてしまっていただろうから。

しばらくそうしていると、今度は2人分の声とともに戸の音がした。
凍らされた心臓がわずかに動いたような、そんな感覚。自分で考えたところで、こんなものの理由はわからない。

、出ておいで」

お登勢さんの呆れたような声に呼ばれて、慌てて立ち上がる。
コップを置いて店に出るとカウンターで項垂れる姿を最初に見つけてしまった。

「言いたいことがあるんだろう」

バシッと背中を叩かれた彼は心底痛そうに顔を歪めたので、さすがに可哀想に思えた。
お登勢さんは時々そのあたりの遠慮がなくなる。

「…悪かったよ」
「…何がですか」
「何がって、お前…その、あー」
「関係ないのは事実です」
「だから、それを悪かったって」
「銀さんは間違ったこと言ったんですか」
「…そりゃあ、」
「間違ってません、だから、私も頭にきたんです」

謝るのは勝手に怒っている私の方なのに。
どんな傷より痛そうに顔を歪める銀さんは、どうして、自分の怪我より私のことなんて考えるんだろう。どうして。

俯いているとお登勢さんがそばにきて、銀さんにやったものと同じ一発を背中にお見舞いされた。
怪我のない私でさえこの衝撃、さぞかし銀さんは痛かっただろう。
何てことを考えているうちに、お登勢さんは奥に戻ってしまった。
俯いたままでいると、視線がやけに痛かった。顔を見ないまま、近寄る。
さっきは見えなかったお腹の傷や、はだけた着物の間から見える傷の多さに目が眩んだ。

「あんたによると、俺ァ悪いことはしてないのね?」
「そうですね」
「へェ…」

図星を指摘されて勝手に拗ねただけの私に、銀さんは甘い。
痛むだろう腕を伸ばして、私の手を取った。あんまりだった、すっかり冷えた私のそれを、じんわりと温めている。

「…じゃあ今悪ィことしてんな」
「…?」
「泣かせちまった」

ふと顔をあげた。やさしくわらうひと。もう片方の手が私の目元を滑った。知らぬ間に、泣いていた。

「…もう、けがしないで、」
「あー…努力はする」
「…無理そう」

濁した返事に思わず笑う。銀さんが怪我をしないで帰ってくる日なんて珍しいと、自分でも本当はわかっていたみたいだ。

「じゃあ、大怪我はしないで。やくそく」
「じゃあアンタは俺のいねェとこで泣かないで」

約束。と、銀さんは柔らかく笑った。
お墓の前で初めて見たときは、こんな風に笑う人だとは思いもしなかったのに。
早くなった心臓の音に耳を塞ぎながら、銀さんの小指と私のそれを絡ませて笑った。





忽然と消え失せた日常


title@傾いだ空