死にに行く人の様子はわかるという。俗に言う死亡フラグとか、そういう類のもの。
猫は死に場所を探しにふらりと出ていくとも言う。それならばこの人は猫ではないとは、思う。
思うけれど、死にに行くような真似をするのは猫のそれよりずっと寂しくて哀しいことなのだとは
わかってくれないのだろう。
目が覚めたときに隣には気配がなかった。もう時刻は日付も変わろうという時だった。
案の定布団は柄にもなく丁寧にたたまれていて、もちろん中身は空っぽだった。
たたまれた布団の上にのせられたパジャマまでもが綺麗に片付けられていて、いったいなんのつもりだと、
その中身がいたならば言えたのにとぼんやり思った。いないのだから無駄なことだ。
布団をたたみながら彼は何を思ったのだろう。パジャマを脱いでいつもの着物に腕を通すとき、
隣でのんきに眠る私を見ただろうか。その頭に少しでも私のことは掠めたのなら、慰めになるだろうか。
いやきっと銀さんが、いてくれなきゃ何にもなりはしないんだ。
銀さんがいて、こんなくだらないことを考える私を笑ってくれなきゃあ、慰めにもなりはしない。
「今日は満月、」
昨晩の天気予報を思い出しながら窓をあけると、予報通りの空模様だ。今にも泣き出しそうな曇天が広がっている。
銀さんの髪の色は鈍く光るから、あの空に似ているのかも知れない。
どうかその色が鈍いままでいいから光り続けてくれますように、たとえ赤を浴びようとその光が消されませんように。
私はその光に導かれるように生きていくのだから、もう他のものでは眩しくて見ていられないのだから、
どうか連れて行ってしまわないでと、淡く祈った。
強い祈りは絶望を連れてくることが多いから、多くは望まないから。どうか今日で世界が終わりませんように。
窓を閉めると最後のあがきのように風が吹き込んだ。さらわれた髪はいつか銀さんが綺麗だと言ってくれたものだ。
銀さんとは違って真っ直ぐだから、と冗談で笑いにした日が、ついこの間のはずなのにずっと昔のように、
まるで前世の記憶みたいに思い出された。縁起でも無い。私はまだ生きているし、銀さんだって。
いつまでも、ガラガラ、と戸を引く音を待っている。この耳はただそのくたびれた音だけを待っていて、
その体はテレビもつけずに、他にすることもなく一人では広すぎるソファに縮こまっている。
銀さんはいつもひとりで抱えてしまうな、と思った。
昨日の夜に、明日は帰れないかもしれない、と告げた銀さんの顔は酷く歪んでいた。
まるでそれが悪い事みたいに苦しんで、眉間にぎゅうっと皺を寄せて、そんなに苦しいならやめればいいのに、なんて
のんきなことを思ったけれど。やめられるなら銀さんは今、ここにいないかもしれない、そうも思った。
大変な仕事なのか、とだけしか聞けなかった。そうでもねェよ、と皮肉めいた笑みを零しながら、
銀さんは私の頭をくしゃりと撫でた。その後、これが終わったら美味い飯でも食いに行くか、と言う銀さんは
いつもどおりぼうっとした表情に死んだ目で、あぁきっとここまでなんだろうな、なんて事を思った。
私が踏み込んでいい線をいつもはかって、それ以上に行くと銀さんはわかりづらいように、けれどあからさまに拒絶する。
それが銀さんはいつもひとりだと感じる所以だけれど、ただ私にはその先に踏みいる勇気がなかっただけじゃないだろうか。
「もし帰ってこないなら死んでやる」
どんなに重たいと、鬱陶しいと思われたってもう構わないから、図々しいとかやっかいだとか、思ってくれるなら、
そこに銀さんがいて、私を見て思いをくれるのなら、もういいから。
消えてなくなってしまうくらいなら、死んでしまうまで傷つけられた方がましだ。
「――帰ってきたから、死なねェでくんね?」
いつの、間に。振り返ると待っていた人がいた。満身創痍そのものの姿ではあったけれど、そこに、帰ってきて、
私を見て、力なく笑っている。
「なにその情けねェ顔、」
「ぎん、さん」
「泣くなら俺が元気な時にしてくれ、で、今は元気じゃねェから」
放り捨てるように言われた言葉にぐっと涙を目の奥に押し込んだ。そうだ泣いている場合じゃないんだ。
手当を、しないと。救急箱は用意してあった、水を汲んでこなきゃ、と台所へ向かおうとした。
「…元気じゃねーんで、には元気でいてほしいんですけど」
壁みたいに立ちはだかったその人を見上げると、目の奥でじんわりと鈍色が光っていた。
いつもなら柔らかく感じるはずのそれも今では涙を誘発するものでしかなくて、
押しやった水分が目からこぼれ落ちてしまった。
「変な出かけ方はやめて、」
「変ってなにが」
「布団たたむとか、パジャマ、たたむとか、」
「お前がちゃんとしろって言ったんじゃねーか」
「なにも今日じゃなくたって」
昨日だって、その前にだって出来る日はあったじゃない。
そうやって昔の会話を思い出して、それで出かけていってしまうなんて、それだけでもう酷いことだと思うの。
「へーへー、じゃあ明日からもやりますー、ずっとやりますー」
「ずっとだよ」
「お前ェより完璧にやり遂げてやるから見てろよ」
「なんではりあうの、」
おかしくてつい笑うと、銀さんもつられてふにゃりとした顔つきになった。
すぐに痛みに顔を歪めたので、あぁそうだ手当を、水を、と動こうとした私の腕を引いて、
銀さんはその腕の中へ引き込んだ。血のにおい、鉄の匂いだ。それでも、心臓の音だ。
とくん、と揺れるその音がちゃんと、聞こえる。
「ただいま」
「…っ、おかえり、」
いったいどこをどれほど傷つけて、傷つけられて来たのかわからないから、
ぎゅうっと抱きしめたい気持ちを抑えてそっと背中に手を回した。
だというのに銀さんは私の分も、とでも言うように、痛むはずの腕で力強く抱きしめてくれた。
とくんとくんと揺れる胸元も、その音も、鉄の匂いも、うつって顔についただろう血も、
もうなにもかもどうか消えないで。ぼんやりと差し込み始めた月の光に、やっぱり、淡く祈るのだ。
その体温があるだけで泣き出しそうにしあわせだなんて