恋はハリケーンとか、どこかの誰かが言っていたっけ。 まさにその通りだ!なんて言うほど自分がそう言う系統、つまり一般的にみればアホに等しいそれに属しているつもりはなく、 かと言ってくだらないと一蹴できるほど達観してもいなかった。 少なくともこの気持ちが恋なのかどうか、問題はそこからだということだけはわかっている。

だって、なんだかむず痒くなる。 長い付き合いだ、それも互いに記憶も薄い幼い頃からの。 両親のことより幼いながらにびびっときたことの方が思い出せるが それは両親より一緒に過ごした期間が長いから、というだけかもしれなかった。 子供にとって親は絶対的な存在で、よく言えば確かに保護者だが、悪く言うならいくらでも洗脳され得る圧倒的な存在でもある。 特に母親の嫌いなものは子供も嫌いになりやすいとか聞いたことがあるが 自分と彼にはどうでもよい、無関係に等しい話である。

もしかしたら洗脳されているのかも、なんてふわふわした銀色を見てふと思った。 自分よりずっと広くたくましく、頼り甲斐のある背中や いつの間にやら無骨で大きくなった、あたたかい手や 何人もの命を守り、そして奪ってきた程よく筋肉のついた腕や それをすべて兼ね備えながらも飄々とした性格、とか。 いつの間に後ろを追いかけるようになっていたんだろう、 もしかしたら初めて出会った時からそうだったかもしれず思いを馳せるが、やはり思い出せない。 初めて出会ったとき、彼は先生におぶられていた。 先生を待っていた私はそれを迎えるように先生の着物をぎゅっと握り、引っ張っていた。 初めて話したのは、初めて触れたのは、初めて笑ったのはいつのことだったか。あまり鮮明ではない。

がりがり頭を掻いたと思えば、くぁ、とあくびをこぼす。 ふわふわと、彼には憎い存在の、私にとってはつい触りたくなるその天然パーマが揺れて 腰からは昔とは形だけは似て、やはりそのものは非なる木刀がさげられ 片方の手からまとめられた買い物袋がぶらさがっている。 それとは対照的に漆黒と呼ぶにふさわしい重たげな自分の髪が、肩のあたりの長さで時折風に揺られ 武器という武器はまるで身につけず両手ともになんの荷物にも埋められていない。 なんとなく、隣に立つには気が引けた。

所在無げにさまよう片手に触れればあたたかいのだろう、 ふわふわの髪に触れれば顔を歪めるのだろう、荷物を持とうとすればそれとなく遠ざけられるのだろう。 そういう人だ、と思った。 優しいと言うにはあまりに不器用で、無愛想というにはあまりにあたたかい人だから。


「なァ、明日雨だっけ」
「うん。結野アナが言ってた」
「どーりで」


夕焼けが見えねェわけだ。

独り言のように小さな声でこぼれ落ちた言葉は、彼が心配するようなこととは到底思えなくて。 空が好きな人だったろうか。 たしかに雨が降ると髪の毛の調子が悪ィと言って機嫌が悪くはなるし、彼には太陽の方がよく似合うとはわかっていたが。 一歩半ほどの距離を保ったまま後ろで首を傾げていると、まるで見えたかのように彼は続けた。


「夕焼けが綺麗だと明日は晴れとか言うだろ」
「あー、そう、だねぇ」


煮え切らない返事になってしまったが、知らないわけではなかった。 最初にそれを言ったのはどちらだったか、いつだったのかやはり思い出せないが こんな会話は初めてじゃない、という気は確かだった。 他にもいろいろ思い出されたが、それは寺子屋の小さい子供たちでさえ知ってそうな気がして きっと先生が教えてくれたんだろうな、と一人納得した。


「あとお前好きだろ、」


夕焼けとか、晴れてんの。

そう言って、照れたように頭を掻いて、がさがさと袋の音を立てていた。 どうして知ってるんだろう、いや、どうしてわかるんだろう、どうして、覚えてるんだろう。 胸の奥からじわじわ広がる温もりに気づかないふりをして、うん、と消えいるように小さな声で答えた。


「…銀ちゃんはさ、」
「あー?」
「お天道様が、よく似合う、よね」


だから、好き。

面倒そうに緩慢な動きで振り返る顔をじっと見つめて、尋ねるように首を傾げてそう言った。

恋とは、どんなものなのだろうか。 多分この一瞬でさえドキドキしてしまうのかもしれないな、それなら私の思いはそれではないんだろう。 ゆるりとした動きも、へらりと笑ってゆがんだ顔も、慣れた様子で差し出される手も、私には当たり前なものだったから。 そんなことを思って差し出された手に緩々と自分のものをのせると 彼の目元は細められ、弧を描き、大好きなそれになった。


「お前、そう言うこと誰にでも言うわけ」
「私が銀ちゃん以外と話してるの見たことある?」
「ねェな」
「じゃあ、銀ちゃんにしか言えないなぁ」


つい緩む口元を隠さないでいると、ふっと笑うのが聞こえた。 きっと傍からみたらなんてくだらない、と思うやりとりなんだろうし 明日には忘れてしまうような会話だし、その事実に対して未練もない。

好きだと言う気持ちがみんな同じならわかりやすかったんだろう。 それでも、どうしても違うのは嫌でもわかる。 野良猫が可愛くて好きだと思う気持ちと、団子屋のおじさんが優しくて好きだと思う気持ちと、 目の前を歩く、たった一人のこの人を好きだと思う気持ちは一緒にはなり得ないと、もう子供じゃないからわかってしまう。

幼い頃は、先生への好きだと言う気持ちと、銀ちゃんへの気持ちは同じだと信じて疑わなかった。 いや、そもそも違うという考えがなかったのだ。 みんな好きで、あのご飯は苦いから嫌いで、意地悪するあの子は苦手で。 退屈な話は眠たくて、外で追いかけっこをするのは楽しかった。 先生が笑うと嬉しくて、銀ちゃんが笑うのも嬉しくて、怒られると悲しくて、 でも銀ちゃんがぎゅうっと隣で手を握って離さないでいてくれたのが、どうしようもなく頼もしくて。

今、この手を握る力は、ぎゅうっとした小さな頃の強いものではない。 それでもあの時よりずっとずっと大きい手が、すっかり私の手を包んでしまっている。 わたしはこの手に、この温もりに、頼もしさ、優しさ、不器用さに、洗脳されているのかもしれない。 それも悪くない、なんて思うのは愚かだ。 自分でも呆れるほど愚かで、なんとなく情けなくて、そうしてやっぱり、それでいいんだと思う。

くわぁっと一段大きな欠伸をかみ殺しもせず大口を開けた人の名を呼ぶと、 なんの変化もなく頼りない返事が返ってきて、それに人知れず口元を緩める。 のろのろと振り返った顔は不思議そうに歪められて、ついまた笑みを深めた。


「なんだよ、」
「んー、よくわからないなぁ、って、思っただけ」
「なにが」


恋って、なんなんだろうか。 先生に教えてもらった記憶はない。 どこかの誰かに聞いたことや、テレビでそんな特集をやっているのを見たことがあるような気がするが、 そんな程度だ。中身は覚えちゃいない。


「この手が、ずっとここにあったらいいのになって思うのはどうしてかな」


繋がれた手を見つめてぽつりと独り言のように言った。 この優しくて不器用な、無骨であたたかな手がいつまでも私の手を握ってくれたなら。 この温もりを知るのは、不器用な優しさを味わえるのは、下手な笑顔を見られるのは、この先も全部私だけならいいのに。 それでもきっと私の醜い願い空しく、不器用なこの人はいろんな人に慕われて好かれるんだ、と知っている。 どこまでもわかりづらい私なんかと違って、こっちが心配になるほど自分の大切なものを只管守ろうとする姿に気づいてしまえば 惹かれない人はいないはずだから。 その姿を愚かだと言う人は総じて敵か、同じようにひどく不器用な人だけだろう。


「銀ちゃんとずっと、ずっと一緒にいたいなって思う」


なんでだろうね、

我ながら幼い言い方しかできないな、と自嘲の笑みが零れた。 哀れにも恥ずかしくも思えるほど容易く理解される言葉しか紡げないのだ。この人に関しては、特に。 それは勘違いされたくないとか思いのままを伝えたいというより、ただそんな言葉しか浮かばなくなってしまうだけだ。 余計な言葉を重ねに重ねたところで、口にするときにはそのすべての装飾がはがれ落ちたようになくなっている。 遠回しに伝えたりややこしい言い方をしたり、素直じゃなかったりしてもきっとこの人はわかってくれる。そんな気さえしたけれど。


つと視線を落として自分の影が長いのを見つめた。 頭から、肩、腕、手から繋がってもう一人の体へ視線が動く。自分よりも長く大きいそれだった。 頼りない光で儚げなそれだったのに、隣の大きな影はしっかりそこにあって私の影は情けなく見えたのだから、もう笑うしかない。 こんな愚かで、情けなくて、他人に知られたら恥ずかしく、どうしようもないような感情が恋なのかも知れない。 やっとそんな結論に至ったところで急に視界が揺れたと思えば、ぐいっと手が引かれたのだと気づく。 不可抗力で飛び込んだ胸元はやっぱり変わらずあったかくて逞しくて、どうしようもなく泣きたくなった。


「俺ァ、が自分からここに飛び込んできてくれりゃァいいのにと思うけど」


誰かが言ってたハリケーンのように激しい思いはわからないし、 かと言って恋とはこういうものだ!とこれから先も到底断言できそうにない。 自分の性格からそこまで色恋に夢中になれるかと言えばうーんと首を傾げそうだし、そもそも、照れくさくってむず痒い気持ちになる。 それでも思うのは、きっと今の胸のじわりとした感覚や、ゆるゆると勝手に緩む顔や、視界が滲んだこととかが もしかしたら恋かも知れなくてもしかしたらただのありふれた好きかもしれない。そんな風に思った。 本当はどうなのか、皆はどうなのか、そんなのわからない。わからなくて、わからないままでいいや。


「明日は、一緒に傘さしてでかけようね」





ほし





(明後日も、そのあとも、手を繋いで隣を歩きたいから)(幸せそうに隣で笑っていて欲しいから)