彼女はひっそりと立っていた。何も言わず、少し眉間に皺を寄せていた気がする。
貪るように食らった饅頭が美味くて、冷えて感覚を失いつつあった手に、なんとなく温もりが戻った瞬間だった。

死んだ人間と会話はできねェから、一方的に誓ってやった。
あんたの婆さんと、そして娘、だと思っていた女。これから先俺が守る、って。
顔も声も性格も生涯も知らねェ相手に誓ったあと、俺は意識を手放した。



***



目が覚めて、かちゃかちゃと食器のぶつかる音、流れる水の音が聞こえた。
次に体の痛みを感じて、最後にあたたかさを感じた。
柔らかい布団、丁寧に巻かれた包帯、まぶしすぎない灯り、生活音以外しない空間。
微かに甘い匂いがして、お腹が鳴った気がした。体は生きようと必死らしい。
無理矢理、ぎしぎしとあちこち痛む体を起こそうとしたときに、彼女が部屋に入ってきた。
どうやらここは和室らしい、そして彼女はどうやら、店らしいところにいたようだ。
柔らかそうな手ぬぐいで手を拭きながら入ってきた彼女は突然慌て始めた。


「あ、待ってください、まだ寝てないとだめです!」


そう言うと、やっとの思いで起こしかけた体をいとも簡単に布団に沈められた。
少しむっとして何か言葉を返そうと思ったら、今度はあの婆さんが入ってきた。
長い夢でも見ていた気分だったが、どうやら現実らしい。体中は痛いし婆さんは婆さんのままだったし。


「ババアで悪かったね、だけど手当てしたのはこの子だよ」


喜びなこの天然パーマ、と寝起き早々暴言を吐かれた。天然パーマなめんなよ。
だいたい心の中で言ったつもりが聞こえていたのか、顔に出ていたのか。
ちっ、と舌打ちで返すと体のどこかが軋んだ。少し動くだけでどこかが痛むらしい。
婆さんとのやりとり中黙っていた彼女は、薄れた記憶と同じように眉間に皺を寄せて、店の方へ戻っていった。
煙管を吸いながら、婆さんがぽつりぽつり独り言のように言葉を零した。


「あいつはまぁ頑固でね、あんたの熱が下がるまでずっとそばにいたのさ」
「あー、なに、熱あったの」
「そりゃもう高熱さ、あたしゃそろそろ死ぬかと思ってたけどね」


なんてことを言うんだこのババア、と思ったが口にはしなかった。
たしかにあの墓地にたどり着いたときすでに意識は朦朧としていたが、
もう少し助けようとしてくれてもいいんじゃないだろうか。いや、手当てしてもらっただけかなり有り難いのだが。


「客の相手しながら、ちょこちょこ隙を見てあんたの様子見に行ったり、」

「あんなに血みどろだった着物も、あの子が綺麗に洗ったのさ」


婆さんが指さす方へ目をやると、最後に俺が来ていた着物が随分綺麗にたたまれていた。
痛みを堪えながら着物に手を伸ばしてそれを広げると、なるほど新しいものと見間違えそうだ。
肌触りもかなり優しく、そういえばほつれていたような、と言ったところはすべて直っていた。


「あんたみたいな重傷は初めてらしい、どうしたらいいのか右往左往しててね」


面白いからってからかうんじゃないよ。釘を刺すように言われたが、俺にはからかえと聞こえた。
口元を歪めてにやりと笑う婆さんは、どうやら敵に回すと面倒そうだとわかった。


それからあの子は、婆さんがため息を吐きながらそういいかけたところで、
彼女が救急箱と水の入った桶、タオルを持って戻ってきた。婆さんは代わりとばかりに煙を吐いていた。


「包帯変えますね、血が滲んでます」
「いや、自分でやるって」
「だめです、動いたら傷口が開きます」


眉間に皺を寄せたまま言うもんだから、つい口を噤んだ。
ババアが笑ったのでまた舌打ちをして、いてて、と、どこが痛いのかもわからないが。
包帯を外し、傷口を消毒して、薬を塗って、また包帯を巻いて。
随分慣れない手つきで、見慣れてきた野郎共の雑な手当とは違う、それはもう丁寧で、優しい。
正直に言えばかなり遅い。前の状況だったならさっさと包帯を奪って自分でやるところだ。
しかし今は、違う。彼女の懸命な眼差しが熱く、真っ白で清潔な包帯がまぶしい。
こりゃ体に毒だ、と思って顔をそらすと、ババアが何を思ったかにやにや笑っている。
動けないし、彼女は集中しているので黙っていようと、顔をしかめてやると、鼻で笑いながら出ていった。

ようやく右腕を終えた彼女は一息ついて、左腕へとうつった。
体がだるくなってきたせいか、眼差しを受けて火照ったせいか、そこで眠りに落ちた。



***



何もなかったように、彼はカウンターで酔いつぶれていた。
お登勢さんは仕方ないやつだと笑っていたけど、たかが三日であの傷が治るものなんだろうか。
お酒をあまり飲まないし、そもそもそんなにけがをしないので、体にいいのか悪いのかもいまいちわからない。
ただ、すやすや気持ちよさそうに、頬をつけて眠る姿を見たらもういいか、と思えた。

朝起きて、お店の掃除をして、食器やグラスを磨いてお花に水をやって。
昼は買い出しへ、夕方は洗濯物を取り込んで、夜にはお店に出る。
そんなほとんど決まり切った生活に、新しい風が吹き込んでから初めてのことばかりだ。
彼の行動はどうにも予想外なことばかりだし、話がうまく伝わらないことが多い。
お登勢さんによく、たまにはもっと気を楽にしたらどうだい、と言われるが、
同じことを彼にも言われてしまった。出会ってまだ数日の人にまで言われるなんて、わたしはどれだけお堅いんだろう。


「お登勢さん、看板しまってきますね」
「あァ、ありがとうね」


羽織っていた毛布を彼にかけて、店の外へ出た。吹く風はまだ冬のそれで、肺を冷やした。
枯れ葉が道を舞うのを見て、はやく春が来ればいいのにと思う。
あたたかくなれば花もきれいに咲くだろうし、彼がどこで惰眠を貪っても風邪を引かずに済む。

看板をしまいながら、思い返して、彼が来てから、考えなかった日はないと気づいた。
今までこんなことなかったのに。
店の前に捨て猫がいても、次の日にいなくなっていれば無事と幸福を祈ってすぐに忘れられたし、
お客さんにセクハラまがいのことをされても大してショックを受けなくなった。


「もう少ししたら慣れるかな」


はぁ、ため息を吐くと、白い息となって星が煌めく冬の夜空に消えていった。





忽然と消え失せた日常







(看板を片付けてるときのお店の中)
「寝たふりもいいかげんにしたらどうだい」
「…なァんだ、ばれてたの」
「ばればれさね、あの子は気づいてないみたいだが」
「つーかよ、なにこの毛布。あったかくて優しくて…なんか寝そう」
「あの子が羽織ってたもんさ。寝るなら上に戻りな、この飲んだくれ」
「…あー、どうりで(いい匂いがするわけだ)」


title@傾いだ空