銀ちゃん、
テレビを見ながらぼーっとしているとふと声が聞こえた。
ソファに寝転ぶ体を起こそうとしたが三秒で諦め、名を呼んだの方へ顔だけを向けた。
だが当の本人はちらりともこちらを見ないでテレビに釘付け、右手はテーブル上のせんべいへとのびていた。
なに、
少しだけもやっとした気分になってつい言い方が雑になったが、これは俺のせいじゃない。
なんで人のこと呼んでおいて、こっちはせっかく休めてた体を動かした(実際は顔だけだが)ってのに見もしねェんだ。
ばりっといい音を立ててはせんべいをかじった。俺と話す気ねェだろこいつ。
あひた、かえる、
ばりばりとせんべいをかみ砕きながら、はそう言った。おそらく『明日、帰る、』とそう言ったはず。
の立てる音を聞きながら、せんべいをかみ砕くようにの言葉を頭の中で分解していく。
明日?明日ってなんだ、明日、明日、だな、うん。帰る?帰るっつったか、なに、帰るって、え、どこに。
なんで、
目を丸くした俺の方を相変わらずこれっぽっちも見ないでは二枚目のせんばいに手を伸ばした。
テレビからは聞き飽きた一発芸とぱらぱらと溢れる笑い声、拍手が聞こえてくる。
ばりっと豪快にかじって、ひたすらせんべいを食べるの表情はさっきからまるで変わらない。
なんでだろうねぇ、
ごくりと喉を動かして、今度は口の中を空っぽにしてからはっきりとそう言った。
はっきりと言った割に、言ったことは曖昧すぎて俺はますますわからなくなる。
何かが不満なのかとか、用事があるのかとか、つーかそもそもどこに帰るんだとか、聞いて、いいのか。
まァ、いいんじゃねェの、
俺の口はどうにも勝手に動くらしい、聞きたいことのひとつも言い出せずふいっと視線をテレビに戻した。
チャンネル変えてくれねェかな、つまんねェ。あァでも夕方前のこの微妙な時間帯に面白い番組なんてねェか。
またふりだしだ、ぼーっとテレビを見てると、銀ちゃん、また、名前を呼ばれた。
元気でね、
のセリフを頭に反芻させて、ゆっくりゆっくりかみくだいて、分解して、組み立てて。
ようやく理解して勢いよく体を起こした頃には、は台所に立っていた。手を、洗ってる。
ぼんやり見ていると、一回も目を合わせないまま戻ってきたはコートを着始めた。
外、まだ、寒ィぞ、
ひくひくと口元がひきつるがは全然こっちを見ずにうん、と応えたので問題ない、問題は、のセリフの真意、だ。
何度反芻したところで理解できたようでできない、きっと一生無理だ。わけがわからねェ。
元気でねって、だってそれ、まるで、それじゃアまるで、
じゃあね、銀ちゃん。
視線は床に落としたまま顔だけを少しこちらに向けて、まるで声色も変えず表情も変えずには言った。
ソファに座ったままぼんやりと、がかがんで、足下のカバンを持って、しゃんと背をただして、
玄関へ向かって行くのを見ていた。ただ、見ていた。意味がわからない、まったく、わからない。
おい、、
小さな声が響いて俺の手がむなしく空をかいた時には、がらがらと戸が開けられて閉められる音が聞こえた。
…いや、まァ、落ち着けよ。ゆっくり、もう一回最初から考え直そう。だって、そんなこと、
そんな、が、ここを出ていくなんてこと、あるわけが、ない。
ぼうっとテーブル上のせんべいを見て、すっかり冷めたであろう湯飲みの茶を見て、それがふたつずつあるのに気づいて。
今度はゆっくり考えなくともすぐに浮かんだ。と、同時に携帯が震える音が響いた。
今度はわかる、ちゃんと、わかった。がたがたとわざとらしく存在を主張するの"わすれもの"を持って、
しっかりと伝えたい言葉を確認して、万事屋を飛び出した。
ぼんやりとテレビを見ていて、ふと思った。
ソファで同じようにぼーっとテレビを眺めているこの人は、
そういえば私をずっとそばに置いてくれているけれど、なんで私なんだろうかと。
出会いのきっかけも、そばにいるだけでなく隣で一緒に歩めるようになった訳も、今でははっきりとは思い出せない。
なんでだったか、考えれば考えるほど不思議になって、わからなくなって、そして、不安に、なって。
銀ちゃん、とつぶやいた。やっぱりその名は自分の中で他の誰のそれより、自分のよりも心地よく響く。
いい名前だとかそういうことじゃないんだと思う。きっと、本能で、大切なものなんだってわかってる。
意味も無く呟いた名前に、もちろんその主は反応した。なんとなく怒ってるように聞こえて。
どうしよう、特に用もないなんてことは言えない。
とりあえず気を落ち着けようとテーブルにあったせんべいに手を伸ばした。
あぁもう、銀ちゃんの方を見られない。視界の隅で少しだけ動いたのはわかったけれど起き上がる気配はない。
ばりっとせんべいをかじると、ふと思った。この人は、どんな反応をするのだろうか。
もし私が、離れると言ったなら。もう一緒にはいないと言ったなら。そして、本当に、ここを去ったなら。
そういえばずっと両親の墓参りに行ってない、なんて親不孝な娘だろう。ごめん、ね。
今日帰って荷物をまとめれば明日には戻れるだろうか、大丈夫、だろう。
せんべいを食べながら、明日帰る、と言った、つもりだ。おそらく伝わっただろう。
反応は気になったけれど、なんとなく怖くて見られない。
もう一枚、とまたテーブルに手を伸ばすとほぼ同時に、なんで、と銀ちゃんの声が聞こえた。
なんで、か。げらげらと笑う声がテレビから聞こえる。そんなに面白いと思えない。
そうだなぁ、あえて言うならきっと反応が見たいということなんだけど、
それだけじゃ、きっと銀ちゃんは納得しないだろうし、私自身それは、なんとなくだけれど違う気がした。
なんとなく、もっと、はっきりとした言葉には到底出来ないような、理由。
なんでだろうねぇ、せんべいをごくりと食べ終わって、気づいたらそう言っていた。
自分でもわからない、胸の内のもやもやした疑問。
私がでていくのを止めてくれるのだろうか、この人は。何か言ってくれるのだろうか。
ひっそりと期待した胸はだが高鳴ることはなく、いいんじゃねェの、なんて銀ちゃんの言葉に傷つくこともなかった。
別に、いいんだ。止めて欲しかったわけじゃないんだから。ただ、反応が見たかっただけなんだから。
でも、そう、そっか。いい、のか。視界の隅で銀ちゃんが視線をテレビに向けたのがわかった。これで、会話終了、だ。
先ほどからずっとぼんやり眺めていたテレビはいよいよつまらなくなって、
でもこのタイミングでチャンネルを変えるほどの図々しさは私にはなくて。
銀ちゃん、元気でね。もうここをでよう、このままいてもきっと空気を重たくしてしまう。
ぼーっとテレビを見たままの銀ちゃんをちらりと見て、せんべいで少し汚れた手を洗おうと台所へ。
使い慣れたここにも、もう立つことはないのだろうか。またひょっこり戻ってきたりするのかな。
それとももう二度と来られなくなったり、するのかな。私次第だと言われても、そんな簡単なことじゃない気がした。
居間へ戻ると銀ちゃんの視線を感じて、やっぱり、見られなかった。コートをゆっくりと着る。
なにも言わないのかと思っていたら、外はまだ寒い、と、心配してるんだか違うんだか。
うん、とだけ応えて携帯の所在を探そうと思ったが、すぐに視界の隅にそれを捉えた。
どうしよう、か。迷うことなんて無いはずなのに、せんべいを取ったように携帯を取ればいい話なのに。
万事屋と仕事の連絡先しか入っていない携帯なんて、仕事をやめた私には、ここを去ろうとする私には、
もういらないのかもしれないなんてことを思った。おいて、いこう。
視線は感じたままだったから銀ちゃんの方は見られなかったけれど、顔だけ向けて、じゃあね、銀ちゃん、そう言った。
声は震えてなかったろうか、変な顔になってはいなかったろうか。足下のカバンを持って、姿勢をしゃんとただした。
玄関で靴を履いて、戸を開けて、閉めた頃にはすっかり足下がふらついていた。
気を緩めたらすぐにでも貧血で倒れそうなくらい、血の気がひいていて、焦点があわなくて。
手すりにすがりつくようにしながら階段をゆっくりと降りた。
当然かも知れないけれど涙はでそうになかった、でも泣きたい気持ちでいっぱいだ。
こんなことにしたのはもちろん私だし、後悔してるかどうか聞かれてはっきり答えられる自信は、あまり、ない。
胸の内はもやもやしたままだ、わからないことだらけ、不安な気持ちのまま。
ふらふらした足取りでたどり着いた公衆電話のボックスに入って、ずるずると崩れ落ちた。
ほとんど何も考えないでコートのポケットから小銭を出して入れて、受話器に手を伸ばす。
押し慣れた番号を止まることなく最後まで押すと、耳に当てた受話器から無機質な音が聞こえてくる。
なにが楽しくて自分の携帯に電話をかけなくちゃいけないのか、でも、こうでもしなくちゃ
携帯を忘れたふりでもしなくちゃ、もう二度と戻れない気がいていた、そんな勇気はもう二度と、生まれないと。
しばらく鳴り続けた音も途切れ、留守番電話サービスにつながった。なんで、でてくれないの。
ふて寝でもしたのかな、厠にでもいったのかな、どうして、ねぇ、どうして。
もう戻れない、私が、自分でまねいたことだ。それでも胸の内のもやもやを消したくて、
不安な気持ちを消したくて、理不尽な思いにしてぶつけることしかできそうになかった。
「………銀ちゃんの、ばか」
「――俺の、せいじゃ、ねェだろーが、」
つーつー、と聞きたくない音のする受話器を離して、うなだれながら文句をこぼしていると、
頭上からふってきた、聞きたかった人の、声。なんで、だって、そんな、まさか。
勢いよく頭を上げると、ぜーはーと息を切らして、冬だというのに額に汗を滲ませて、
相変わらず頭はくるくる跳ね回り、服はしわがついていて、それでいて、見慣れた、大好きな姿。
「ぎん、ちゃ、」
「ちょっと、だまれッ、お前、ほんと、ふざけ、んな、よ」
電話ボックスで座り込む私は、入り口を封鎖する銀ちゃんに閉じ込められたみたいだ。
さっきから道行く人の視線が痛い。でも珍しく彼はそれどころじゃないらしくて息を整えている。
今日、はじめてだ。じいっと目と目が合っている。
今までだったらむずがゆくてとてもじゃないけど、見つめ合うなんてできなかった。
「――いいか、一回しか言わねェからな」
はァ、とひとつため息なのか深呼吸なのか、曖昧なものを零した銀ちゃんは
私を見下ろしながら、無表情のまま吐き捨てるようにそう言った。
怒っているように聞こえる科白だけど、無表情のままだけど、どうしても私には
優しい声に聞こえた。あたたかい目だと思った。あぁこの人が、大好きなんだ、思い知った。
ごめんなさい、愛してます
(ぎゅうっとわたしをだきしめて、彼は言う、)(らしくねェことすんな、バカ)
カラスが鳴いたら帰りましょうなんて、誰が言ったんだか。
その通りに、夕焼けが照らす道を歩いている私たちの手はつながれていて、そこはあたたかい。
もやもやしていた胸の内なんてすっかり照らされて霧消していった。なんて、単純なんだ。
「よく、わかったね」
「なにが」
「わたしもわからなかったような、欲しかった言葉」
「……そりゃお前、アレだよアレ、」
愛、だろ。
ぎゅうっと手を握る力を強めて、溢れそうな涙も、熱くなる顔も、全部この人のせいだ。
ぽつりと呟いたはずの言葉は、どうしてか彼に届いたらしく「人のセリフぱくってんじゃねーよ」なんて笑われた。
するすると絡まる指にこみ上げた気持ちはもう消えそうにない。ごめんね、銀ちゃん。愛してます。