かたん、と聞き慣れた音を立てて靴箱のふたが閉まる。 もうすっかり板についた動きで靴を下に置けば、夕陽が差し込んでいるのに気がついた。 左胸につけられた造花も、カバンから少し顔を出している卒業証書の入った筒も、 全部が夢の中のようで、触れたら消えるんじゃないかと思って、でも触れればしっかりとそこにある。 卒業アルバムしか入っていないカバンは軽いようで重たく、靴を履いた足の動きは遅い。 細々と差し込む夕陽の上をなぞるようにゆっくりと歩いていると、急に影が出来て遮られた。 誰かなんてわかっていた。視界の隅に移った革靴もスーツの裾も見慣れないもので、 だけどまとう空気は言葉じゃ表せないくらい慣れたものだったから。


「銀八」
「だから先生、な」
「もう卒業しちゃった」
「バカお前、話聞いてなかったの」
「なに」
「今月いっぱいは俺の、あの、なんだっけ、支配下?」
「…管轄?」
「あ、そうそうそれ」


それでも国語教師かと思うほどの語彙力の彼をじと目で見てやったけれど、 これっぽっちもダメージを与えられないのはわかっていたからすぐにやめた。 案の定、どっちも似たようなもんだろ、と呟くのが聞こえた。

卒業式だろうとなんだろうと、これはペロペロキャンディだと言い張ってたばこを吸う姿は やはり見慣れたもので、見飽きたもので、でももう見られないと言われるとすごく寂しいもので。

とん、と下駄箱に背中を預けると、銀八も入り口に背中を預けた。 なにか話があったわけじゃないのか、と思ったがそもそもあったところでまともな会話ができると思わない。 最後くらい、無駄な時間だと言われても、今くらいは。 誰に言い訳するでもなく胸のうちで呟いて目を伏せた。


「…お前さァ」


しばらくして耳に聞こえた声にそっとまぶたをあげると、ちらりともこちらを見ずに 銀八がたばこを携帯灰皿に押しつけているところだった。 見慣れていた気分でいたそれは、思い返せば初めて見る仕草だ。最後の日にまたひとつ、知れた。


「今、いくつだっけ」
「…ぶっとばしますよ」
「こわっ、聞いてみただけじゃねェか」


十八だろ、十八。あれ、合ってる?
ひーふー、と指折り数え始めた銀八に、思わず深いため息を吐いた。 わざとなのか本気なのか時々わからなくなる。 合ってますよ、我ながら力のない声でそう言うと銀八はあァ、そうと少し笑った。 もちろんそんな些細なことにこの胸がぎゅうっとなるのも彼は知らないままで、教えてやらないで、私は卒業した。


「で、俺が二十とそこそこなわけなんだが」
「そこは教えてくれないんですね」
「夢を壊したくねェじゃん?」
「今更せんせーになんの夢も持てませんから」


あァ、くつくつと笑う姿にまた、胸がどんどんと締め付けられていく。 わざとらしく先生、と呼んでみても彼は至極嬉しそうに笑うだけだ。


何度、悔しいと思ったか。悲しいと、切ないと、さみしいと。 追いつきたくて、待ってて欲しくて、どこにもいかないでほしかった。 片方の口元をつり上げて笑うのも、眉をはの字にさせてぐしゃぐしゃに笑うのも、 私だけが知っていて私だけのもので、ずっと隠してしまいたかった。

放課後、ほこりっぽい準備室でくたびれたネクタイを引っ張ってみても、 口元から煙のでるキャンディを奪ってみても、彼は笑うだけだった。 その先へ踏み出す勇気が私にあるわけもなくて、心中を悟られないように笑みを浮かべるので精一杯。

先生はずるい、そっとまた目を伏せてそう思う。 目を閉じててもわかる夕陽のまぶしさが少しだけ憎い、きっと私の表情の変化もまるわかりなんだ。 少しだけ三年間に思いをはせていると、また話が始まった。今度は目を開けてあげない。


「俺は正直たばこやめられるかわかんねェし、パチンコだってやめられる気がしねェ」
「…まぁ、いいんじゃないですか」
「でもほら、副流煙とか、騒音とか。お前嫌いだろ?」
「嫌いって言うか…、体に悪いじゃないですか」


私のことじゃなくて銀八の心配してるんだけどな、伝わらないだろうな。 言わなきゃわかんねェといつだったか泣いている私に銀八が言ったけれど、その通りだ。 ただ泣いてごねても伝わらないし、笑って我慢していればなにも気づかれない。 この三年間でどれだけ意思疎通の機会を捨ててきただろうか。

うっすらと目を開けると、差し込む夕陽は随分と弱くなっていた。もうすぐ日没だろうか。 瞬きをするたびに目が潤って、潤いすぎて、いらないものが溢れてしまいそうになる。 こんなの私らしくないのに、さんざんみんなを慰めて笑っておいて、今更、泣くなんて。


「…伝わって、ねェよな」
「…え?」


今まで聞いたこともないほど力のない声が聞こえて、つい頭を上げてしまった。 気づいたら目の前に銀八が立っているし、その顔はへにゃりと情けない様で笑っているし、 ついがたっと盛大に音を立てて下駄箱に背中をくっつけた。焦っているのがばれた、だろうか。


「もうお前、卒業したしよ。そろそろ、」


我慢も限界に、なってきたわけですけど。
どこかぎこちなくそう言うと、銀八は私の頭のすぐ横に手をついた。 目を見開いたままの私が銀八の瞳にうつって、あぁなんてあほ面だと我ながら可笑しくなって笑う。 つられて銀八も笑うと、また、胸が。つい胸元をぎゅうっと握りしめる。

こんなのはきっと夢で。それこそ、本当に、夢の中で。 触れたら消えてしまうほどはかないものだ、だからきっと触れてはいけない。 夢から出たくないならこの目は伏せなくちゃならない。 そっと伏せようとしても、今このまぶたを閉じたら零したくない滴が溢れる気がして、 それだけはなんとしても避けたくて。


「なァ、もう言ってくれねェの」
「なに、を、ですか」
「…それ、俺に言わせんの」


くつくつと笑って、銀八はそっと顔を近づけてきた。 握りしめた胸元がどくんどくんと鳴り響いても、目尻からついに滴が溢れても、彼は笑うだけ。 耳元でたった一言呟くと、すぐに私の視界に顔をだして、一瞬だけ目を合わせて、にやり、笑って。 優しく、触れるだけのキスをした。





斜陽に幻影





「…にがい」
「悪ィな、やめられそうにねェって言ったろ」
「銀八…、せんせーは、ずるい」
「っお前、の方が…、よっぽどずるいっつの」



(潤んだ瞳も、せんせーと俺を呼ぶ震えた声も、)(好きだよ、